ある日、私がテレビドラマを見ていて心に残った言葉がある。男女の恋愛関係がもつれほとほと疲れてしまった主人公の女性に友達が言った言葉である。
「そんなの水に流してしまいなさい。いつまでもくよくよしたって仕方ないでしょう。」これは疲れきった主人公に対して、きっぱりと生きる事を促す友達の優しい激励の言葉であるが、私には少し気になる言葉として心に残った。今までの事はすっかり忘れてこだわらないようにするという言葉だが、はたして困った物は何でも水に流していいのだろうかと思ったからだ。
ある昼休み、清掃員のおじさんがたった一人で山積みのごみを分別していた。昼休みに特に予定のなかった私は分別をお手伝いする事にした。いくら燃えるごみと燃えないごみに分別されているとはいえ、実際は完璧に分別されているわけでなく、少し残念な気持ちになった。ごみ箱にポイと捨ててしまえばそれで終わりなのか。その時頭に浮かんだのはドラマの中での水に流すという言葉だった。
かつて人々はごみ処理を、自己責任で最初から最後まで行っていた。例えば牛を飼っている農家では、牛の糞を田畑の肥料として使い、米や作物を作り、収穫していた。収穫の際に出るワラは牛のエサになる。この何一つ無駄にしない、正しい循環を作りあげていたのだ。
しかし、今日この循環ができているかというと必ずしもそうは言えない。昔とは違って、今日のごみ処理のあり方は「分業」に依っている。自分の家から出たごみはしっかり分別し、再利用できる物は利用し、正しい形でごみ置き場に持っていき、それを今度はごみ収集車がごみ処理場に持っていく。自分の領域という物をしっかり責任を持って次の行程にバトンタッチをしなくてはならない。正にリレーである。途中で上手く処理されなかったとしたら次の走者にバトンを渡せず、そのレースはそこで終わってしまう。
最近では家電製品や自動車などの不法投棄が多くなってきている。家のテレビが壊れると修理代がかさむので、むしろ新しい物を買ったほうがよいという考えになる。その辺の空き地や雑木林に実に多くのさまざまな物が捨ててあるのは、そういうことに違いない。個人や企業の全てにそういう事が起きている。
このように、うまくバトンタッチされなかったごみや不法投棄が増えると環境的にも衛生的にも悪影響を受け動植物の生態系にも破綻をきたす。人間の今の行動は未来につながっている。花や木があふれ、自然がいっぱいの地球になるか、それともごみだらけの汚い地球になってしまうか・・・。一人ひとりがごみ処理レースの上で、責任を持ってバトンタッチをして、水に流さないということが、かけがえのない地球を守る方法になると私は思う。
2002年 青森県知事賞(中学生部門)
東京都 中学3年 松本 正子