昨年、新潟県は水害・地震と大きな災害に立て続けに見舞われ、被害を伝える連日の報道に心が痛みました。そこで私は夏休みに、水害復旧作業のボランティアをしました。被害は私の想像をはるかに超えたひどいもので、町の中は何日経っても泥の臭いが充満し、全ては泥まみれのゴミと化していました。ゴミの撤去、泥のかき出し、水洗いと無我夢中で作業を行いました。人々と共に生きていた川が次々と豹変し、恐るべき破壊力で襲って来る恐怖とその後の膨大な被害を目の当たりにして、それまでは当たり前に、むしろ節約しなければと思いながら使っていた水や自然の持つ力について改めて考えさせられました。
この春ホームステイした中国の長春の友人宅では、水は一日のうちにある一定の時間にしか出ないので、常に桶に汲み置きした水を使っていました。水洗トイレの水も朝には出なくなるし、もちろん毎日お風呂に入ることはできません。何は無くとも毎日シャワーと思っていた私にとってこれは驚きでした。しかし、慣れてくると使い方を工夫して合理的に生活できるようになるものだと思いました。
WHOによれば、人間一人が人間らしく生きられるために必要な一日の水の量は、5リットルだそうです。私も実際に一日の生活を5リットルの水で試してみました。洗面や食事や手洗いには困りませんでしたが、シャワーを浴びたり、トイレの水として存分に流すことは不可能でした。三日であきらめてしまいました。ましてや食器洗いや洗濯が加われば一日でも無理です。ところが先進国では、一日に百倍の500リットルもの水を使っているのです。しかし、そのうち250リットルは目に見える水ですが、残りの250リットルは社会のシステムの中で使われる目に見えない水なのです。例えば、動植物を育て、食品として作るために使われた水を私達はそれらを口にする時、間接的に使っているのです。
同様のことが電力などの資源にも当てはまります。知らない間に消費されていくものは、私達の力ではどうすることもできませんが、少なくとも先進国の人間は、見えないものにたくさん周りを囲まれて生活していることを忘れてはいけないのです。私達はどれくらい資源の恩恵を受けながら生活しているかということを知っているのと知らないのとでは、物に対する価値観が違ってきます。節約や減量など目に見えるものには、大部気を遣うようになりましたが、目に見えないものにどれくらい気を遣っていくか、見ようと努力するかということも、今の時代に生きている私達にとって必要なことなのではないでしょうか。
また、水害のように自然の摂理を壊す過剰なものは、目に見える多大な被害をもたらしますが、人々の心の中の見えない苦しみや悲しみというものに、私達が目を背けることなしに向き合った時にこそ、本当の意味で地球と共存していけるのではないかと思います。
2005年 高円宮賞(中学生部門)
新潟県 中学3年 河合 麗子