浜辺を散歩していた時のことです。太陽が西に沈みだして、浜辺にはペットボトルや空き缶などのごみがいっぱいでどんなに汚いかに気づいたのは。ティッシュペーパー、ビニール袋など、分解されて土に返っていかないごみがいっぱいでした。
「うー、」と初めは思いました。
突然別の情景が思い出されました。私自身がごみをそこらじゅうにポイ捨てしていたことでした。ゴミを捨てるゴミ箱を探す手間をかけずに。良心の呵責を感じました。
私は常にこう考えました:小さな害は、私がしたような小さな紙切れを捨てるといったことから引き起こされるのだと。「ほんのちょっとしたビニールだもの」「誰も傷つけるわけじゃないもの」といったことが、私のポイ捨ての理由でした。でも、考えながら、ごみでいっぱいの浜辺を歩いてみると、私のしたことには正当な理由が何一つないことがわかりました。
「私はこれをどうかしなくて。」しばらくして決心しました。これはあまりにも見られない状態でした。まるで何百万ドルもするりっぱな肖像画が無知な子供の手で壊されてしまったかのような、平安を乱された気持ちになりました。
最初にまず、周りのごみ拾いから始めました。ごみは永久に減らないように思えました。拾っても拾っても散らかっていました。腰をかがめた私の前にも。拾い上げたら、またポイです。私の小さな努力など無視されてしまうくらいのものだということは分かっていました。でもやると決心したのです。この忍耐心がなかったらごみ拾いを続けることはできなかったでしょう。
しばらくすると、誰かが私の名前を呼んでいるのが聞こえました。それは海にこだまして私のところへ跳ね返ってきたのです。まるで私がどこに居るのかわかっているかのように。父のそばまで戻っていくと、「さあ行こう」と父が言いました。手にいっぱいのごみを抱えている私を見ておどろいて父は、「どうしてごみを拾っているの?」と聞きました。
「今までにごみを捨てていた償いをしているの。私は私たちに残されたものを守りたいだけなの」とごみを抱えたまま言いました。そしてゴミ箱を見つけようと歩きだしました。
それから何日間かは、私はちょくちょく同じ浜辺に戻っていき、ごみを拾い続けました。中には私を見つめて、”何をしているんだか、きっと気がおかしいに違いない”といった目で見ている人もいました。ある日、この日が特別の日になりましたが、一人の見知らぬ人が私に近づいてきて、一緒になってごみを拾い始めました。そしてこの一緒にするという関係が始まりました。日が経つにつれて、少しずつ手伝いをする人の数が増えていきました。
私がしていることは、無駄の証明をしているようなものだと考える人がたくさんいるかもしれませんが、私は、そうではないことを、無駄ではないことを祈りました。毎日自らやってきてごみを拾う人にとっても、これは決して楽なことではないからです。環境を守るという点ではほとんど効果が無いように見えますが、「成せば成る」ということわざもあります。私の提案を公に広めなくても、人々にごみを拾うように奨励しなくても、これは自ら進んでやる人たちがすることなのです。
私の一歩はたいしたことが無くて、人が出来るたくさんのことからすると、とても小さなものに見えるかもしれません。でも、私は環境を守りたいからごみを拾っているのです。利益を得たいとは思っていません。私はまだほんの子供です。それでも、この一度はきれいだった地球を守る為に何かをしようという、この大きな挑戦にいどんでいます。そして汚染を出来るだけ減らそうとしています。
加勢をする人が増えるにつれ、私たちはなんとかいろんな場所をカバーできるようになりました。そしてその間に皆の間には友情が芽生えました。それ以外、何も恩恵を受けてはいません。私達は単に地球を保護したかっただけなのです。助けたい。ダメージを受けた地球を守りたいという気持ちで始めるというのが私たちのやり方なんです。
そうなんです、他にもたくさんやり方はあります。助けたいという思いを実際に行動で示すことです。地球がゴミのようなもので汚染され、苦しめられないようにすることなど、皆、大いに役に立つことばかりです。
2006年 特別賞(中学生部門)
シンガポール 中学校2年 ユーリンドラ・ヴィジャヤ