私の学校には「ごみ0のひ」というものがある。それはおよそ月に二回、全校で開催される小イベントのようなものだ。概要は名の通りで、指定された日には校内にごみを捨ててはいけないというものである。本来捨てるはずの「ごみ」を持ち帰ることで「自分で出したごみは自分で持ち帰る」ことを全校に喚起させるのを目的としている。
しかし私は気づいた。この企画とごみ減少は直接は何の関係もないという事実に。確かに校内ではごみが0、もしくは0に近い状態になるかもしれない。だが、私達は持ち帰ったごみをどうするのか。決まっている、捨てるのだ。大きな目で見るとごみは学校から家庭へと移動しているだけで量は変わらないのである。では、ただの自己満足だろうか。私はときには嫌々行っているこの「ごみ0の日」の企画に自分なりの意義を見出したいと思い、考えてみた。
すると一つの仮定が浮かんだ。それは、捨てるな、持ち帰れと言われたら私達はどうするであろうか、ということである。私なら正直、持ち帰るのは面倒くさい。ごみだから捨てるのになぜ持ち帰らねばならないのか、というやりどころのない怒りさえ持つ。そうすると、できるだけ持ち帰らぬ方法を選び、ごみを最小限に抑えようとするだろう。私一人から友人へ、そのまた友人へとこの環を広げてつなげていけば必然的にごみは減る。自分で持って帰りたくないという理由はともあれ、私達はごみを減らそうとする。ここまで考えてみて私は「ごみ0の日」というイベントに仕掛けられた意味の深さに感心してしまった。罠のような仕掛けだが、実はもっと大きな大人の思惑もあるのかもしれない。
結局のところ「ごみ0の日」は私達にできる地球への優しさの一つなのだ。「自分達のできることをしたい。」と私達は良く言う。しかし、その反面自分一人が何かをしたところで世界は何も変わらないと思っている。
少し極端な例えだが、もし明日環境のバランスが影響し世界が破滅するとしたらどうなるだろう。おそらく何もしなかった人間は、自分が地球にいることも忘れ、対策を講じなかった「地球人」を憎むことだろう。一方、自分のできることをした人間は、自分がここまで地球を守ったという満足感等を得るかもしれない。要は気持ち一つだ。地球のために何もできないと勘違いするのではなく、地球のために何かをしようとする地球人でありたいと思う気持ちが重要なのだ。
ここまで私が考えたのは「ごみ0の日」が原点だ。とりあえずできるところから、次回の「ごみ0の日」はごみを出さないよう極力注意してみよう。そして友達ともこのことを話し合い、ごみ0の環をどんどんつなげていこう。
2006年 特別賞(中学生部門)
神奈川県 中学校3年 鹿田 葵