切り出した雑木を運び、束にする作業。青臭い生木から出る木酢の匂いと炭焼き釜。雨上がりの山、スポンジのように水を含んだ地面を踏みしめた裸足の感触。地面から湧き出す透き通った水。忘れられない体験でした。
小学校三年生の春休み、ぼくは姉と、高知県の祖父母の所へ二人旅をし、祖父母と一緒に生活しました。祖父母の家は農林業を営んでおり、家の周囲には里山が広がっています。春先の田にはレンゲ草が咲き、牛の糞が広げてありました。山の木陰には椎茸の木が規則正しく並べられていて、大きくなった椎茸を収穫するのはぼく達の毎朝の仕事でした。その横には、直径二十センチ位の楢の木が一メートル位の長さに切り揃えられ、これに椎茸の菌を埋め込む作業もさせてもらいました。竹や細木を切る作業もしました。
「竹は放っちょくと何ぼでも増えるき、適当に切らなあいかんが。細木(雑木)も一緒で。放っちょいたらヤブになるきねえ、除けた物は炭や土の栄養になるき、山からゴミは出んがで。いっつも山をきれいにしちょくき、水も空気も心配せずおれるがで。」
こんな話をしながら、祖父は、小さいぼく達が飽きないように、色々な仕事を経験させてくれました。その後もぼくは長い休みに帰省し、祖父の手伝いをしますが、里山はその度に違う姿でぼくらを迎えてくれます。間伐、田植え、草刈、収穫期など、季節ごとに必要な手入れを受けながら里山は変わることなく続いていきます。ぼくはその中で、山の機能や循環の輪を自然に感じるようになりました。
ところが近年、日本中の里山の危機が叫ばれています。農村の過疎、高齢化で、山を手入れできなくなっているのです。跡継ぎのいない祖父の里山も例外ではありません。「限界集落」という言葉も生まれ、農村の機能が急激に衰え、やがて消えると予想される過疎集落も多いのです。最近、ぼくは祖父の言葉を思い出します。山の荒廃は治水や温暖化を通じ、じわじわと都会人の生活をも脅かします。ぼくは、山や川に直接触れる機会の少ない都会っ子に、山村の生活を体験してほしいと思います。だから、小学校の林間学舎や修学旅行で、ぼくが体験したような実地体験型里山学習を取り入れてほしいのです。それも、自分達の飲み水を供給する川の上流で、四季を追って、体験を重ねていくべきです。自分達が受けている自然の恩恵、緑のダム、きれいな空気の意味を実感するのは、大きな宝物です。小さい時の実体験は必ず大きくなって環境学習に結びつき、今、ぼくが感じているように、都会人が田舎の荒廃を自分の問題として捉えることにつながると思うからです。そんな子供の中から、農林業を仕事に選ぶ人も出てくるかもしれません。
祖父と焼いた竹炭は、取り替えられながら、今もぼくの家の水槽で水を浄化しています。
2006年 環境大臣賞(中学生部門)
大阪府 中学3年 柳原庸平