私は、植物を育てることが苦手だ。なぜなら植物は話をしないため、動物よりも扱いにくいからだ。だから、もっと水をあげた方がいいのかとか、具合が悪いのかなどを上手く判断できない。また、面倒くさがりの私は水をあげる事を忘れてしまうことがある。そういった時に、もし植物が文句を一言二言言ってくれたら、私は面倒くさがりながらも水をあげるだろう。植物が話せないのは損だよなぁ、と私は思う。植物が生きているなんて正直信じられないからだ。動物と植物は簡単に言えば同じ生き物なのに、私の中で動物と植物の間には境界線がある。私は、その二つの命の重さは違うような気がしてしまう。枯れた花を見るのと、死んだ犬を見るのとでは、衝撃が違う。どちらも昔見たことがあるが、犬を見た時の方がショックは大きかった。どちらも同等な命であるはずなのに、この差を感じることはおかしい、と自分のことながら思った。
地球も、植物と同じだと思う。生きているのに、黙っている。地球にとって嫌だろうと思われることに抵抗すらしないから、なんだか生きているとは思えない。だから悪いことでも平気でやってしまえるんだと思う。人間が地球にしているひどいことはたくさんある。例えば、ごみの埋め立て。地球からしてみれば、自分の体にごみをなすりつけられているようなものだろう。しかもそのごみは自然にかえるわけでなく、一生そこにあるものだ。中には、危険な物もあるだろう。もし自分がそんなことをされたら、と考えると地球がとてもかわいそうに思えてくる。
現在は、便利なモンであふれている。しかし、地球にとって悪い物があふれている、とも言える。そんな処置に困るような物の値段を、いっそあげてしまうのはどうかな、と私は考えた。甘い考えかもしれないが、お金、経済が絡んでくると、人間は変わると思う。悲しいことだけど、本当にそうだと思う。そうすることによって、値段が上がった物を長く、大切に使うようになって、ごみが出にくくなると思う。例えば、スーパーのレジ袋が有料になっているところでは、レジ袋の消費量は減っている。今は経済や技術が優先されていて環境が後回しにされているけど、それらがうまくつりあう世の中になってほしいと思う。
今、地球の声を聞いたら、地球はどんな声をあげるだろう。聞いてみたいと思う反面、恐くて聞きたくないような気もする。でも、声がしなくても、地球の様子に真正面から目を向けて、地球の想いを感じとることが、今一番しなくてはいけないことではないか、と私は思う。私達が住む、たった一つの地球を枯らさないために。
2007年 優秀賞(中学生部門)
静岡県 中学校2年 高橋佳也